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オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)の歴史 - カナダが生んだ「鍵盤の皇帝」

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かのデューク・エリントン(Duke Ellington)からこう呼ばれた男がいた。
"Maharaja of the keyboard" = 「鍵盤の皇帝」
それがカナダ・モントリール出身のジャズ・ピアニスト、オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)である。
速く、正確に演奏することにおいて、ジャズ界で彼の右に出る者はいないだろう。
だが、彼の特徴はそれだけではない。オスカーのピアノはまさに”歌って”いるのだ。
そのダイナミックでエキサイティングな演奏は、多くの人を魅了し、いつしか人々は彼を「鍵盤の皇帝」「ブギウギ・ブラウン・ボンバー」「マスター・オブ・スウィング」となどと称するようになった。
1950年代から本格的に活動を初め、亡くなる2007年までに参加した作品は200を超え、数えきれない程のミュージシャンとレコーディングを共にしてきた。
エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)など大御所からの信頼も厚く、1957年リリースのアルバム"Louis Armstrong Meets Oscar Peterson"で共演したルイ・アームストロング(Louis Armstrong)からは「4本の腕を持つ男」と称された。
約60年に渡る音楽活動の中で、8つのグラミー賞を受賞。カナダの音楽業界において、優れた作品を創り上げたクリエイターの業績を讃えるジュノー賞も獲得しているオスカー。
腎不全により、82歳でこの世を去った後も、多くの人々を魅了し続けているジャズ界のレジェンドは、どのような人生を送ってきたのだろうか。

1925年8月15日、カナダのモントリオールで生誕

オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)は1925年8月15日、カナダのモントリオールで生を受けた。 西インド諸島出身の移民家庭の元に生まれ、母は家庭内労働者として、父はカナダ太平洋鉄道の甲板長として働いていた。父のダニエルはアマチュアミュージシャンとして、トランペットとピアノを演奏しており、よく家族を教会やコミュニティ・ホールで行われるライブへ連れて行った。

ダニエルの教育方針で、5人の子供達はピアノと金管楽器の一つを演奏しなければならなかった。 そこで、五人兄弟の四男として生まれたオスカーは5歳のとき、父と同じピアノとトランペットを始めることにした。しかしその2年後、オスカーは結核を患ってしまう。約1年間の闘病生活の末、無事に完治したが、トランペットは肺に負担が掛かる為、ピアノのみに専念することにした。(ピーターソン家の長男、フレッド(Fred)は同じ病気で16歳の時に亡くなっている)

オスカーの初めての指導者は彼の姉、デイジー(Daisy)だった。彼女は後にモントリールで有名な指導者となり、オリバー・ジョーンズ(Oliver Jones)、ジョー・シーリー(Joe Sealy)、レグ・ウィルソン(Reg Wilson)など著名なジャズミュージシャンを育てている。
また、オスカーの兄、チャック(Chuck)も後にプロのトランぺッターとして活躍することになる。音楽の才能に溢れた家族のもと、オスカーはすくすくと成長していった。

オスカーは若い頃から様々なスタイルを取り入れながらピアノを学んでいた。姉のデイジーからはクラシックを学び、12歳ではジャズピアニストのルー・フーパー(Louis Hooper)、14歳の時にはハンガリー出身のピアニストであるポール・デ・マーキー(Paul de Marky)からピアノを学んだ。また、ジャズ・トランペット奏者として後に有名になる、メイナード・ファーガソン(Maynard Ferguson)とクラスメイトだったこともあり、ダンスバンドで一緒に演奏をしていたこともあった。

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オスカーと姉のデイジー。
デイジーはオスカーの学費を払っていたこともあり、ピアノだけでなく金銭面でも彼をサポートしていた。

頭角を現し初めた10代、徐々にプロの道へ

14歳になる年、姉のデイジーに勧めでアマチュア・コンテストに出場、見事優勝を果たした。
このコンテストはカナダのラジオ局が主催していた為、優勝した彼は1941年から1945年までの間、ラジオ番組で週に1回程度、演奏することになる。

オスカーのピアノはクラシックを基調したものだったが、ナット・キング・コール(Nat King Cole)、テディ・ウィルソン(Teddy Wilson)、そして彼のアイドル、アート・テイタム(Art Tatum)の影響により、ジャズ音楽に舵を取り始める。10代にしてオスカーは慢性的な関節炎を発症したが、それでも彼はピアノの技術を磨き続けた。既に知名度を上げ始めていたオスカーはジミー・ランスフォード(Jimmie Lunceford)、カウント・ベイシー(William "Count" Basie)から「アメリカへ渡り、バンドに入らないか?」と誘いを受けたが、まだ若すぎる彼を渡米させることを、両親は許さなかった。

本格的にプロミュージシャンとして活動を始めたのは、17歳からだった。オスカーは高校を中退し、ジョニー・ホームズ(Johnny Holmes)が率いる有名なダンス・バンド"Jonny Holmes Orchestra"のソリストとして加入。1943年から1947年の間、このバンドでピアニストとして活躍した。この頃、オスカーの父は高校を中退させ、音楽の道に進ませることに懐疑的だった。そんな父は息子に「ピアノの世界で生きていくのなら、その他大勢ではなく、1番になりなさい。」とよく声を掛けていた。

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ジョニー・ホームズとオスカー。
ジョニーは早くからオスカーの才能を見抜いていたのだろう。

カナダで最初のジャズ・スター

オスカーが初めてレコーディングを行ったのは1945年、20歳になる年だった。レコード会社はアメリカにある"RCA Victor"で彼はここで4年間、計32曲を録音。 「ブギウギ・ブラウン・ボンバー」 はこの頃に得たニック・ネームである。ここでレコーディングされた曲は1994年に"BMG France"、1996年に"BMG Canada"から"The Complete Young Oscar Peterson (1945–1949)"として再販されている。
この楽曲達が高い評判を得て、オスカーは「カナダで初めてのジャズ・スター」と称されるようになった。また、この時期に行った"CBC Radio"への出演や1946年の"ウエスタン・カナダツアー"も彼を世間に知らしめた理由の一つであろう。
1947年までにはオスカー・ピーターソン・トリオとして演奏を行っており、その際のメンバーはベースがオースティン・ロバーツ(Austin “Ozzie” Roberts)、ドラムがクラランス・ジョーンズ(Clarence Jones)だった。
ライブの様子はモントリール・ラジオ"CFCF"でブロードキャストされていた。

全てが順調にいっていたオスカーだったが、1940年が終わるころにはカナダ国内のジャズ・マーケットに限界を感じていた。オスカーの噂は既にアメリカでも知れ渡っており、トランペット奏者のディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)はいち早く彼の才能を見抜いていた。
ディジーはピアニストでプロデューサーでもあったレナード・フェザー(Leonard Geoffrey Feather)に「これまでに聞いたことのない、凄すぎるピアニストがいるんだ!彼を俺達のコンサートに参加させよう!」と話をしたが、レナードは特にアクションを起こさなかった。
時を同じくして、アメリカのジャズ音楽プロデューサー、ノーマン・グランツ(Norman Granz)もコールマン・ホーキンス(Coleman Hawkins)とビリー・ストレイホーン(Billy Strayhorn)からオスカーの話を聞いていたが、実際にコンタクトを取ったのは1949年にモントリールを訪れた時だった。乗っていたタクシーで空港へ向かっている際、ラジオ"CFCF"から流れてきたオスカーの演奏を聴き、驚いたノーマンはそのタクシーでオスカーの元へ向かったのだった。

1945年公開の映画"Begone Dull Care"。
ピアノはもちろんオスカーでまだ若い彼の演奏が聴ける貴重な音源だ。

運命のカーネギーホール

ノーマンはオスカーのマネージャーとして、彼をニューヨーク・カーネギーホールでのライブに参加させることにした。(彼らは後に親友となり、ノーマンは1988年までオスカーのマネージャーを務めることになる)ラインナップはチャーリー・パーカー(Charlie Parker)、バディ・リッチ(Buddy Rich)、ロイ・エルドリッジ(Roy Eldridge)、レスター・ヤング(Lester Young)と錚々たるメンバーだった。急遽決めたライブだった為、就労ビザを用意することが出来なかったノーマンは、オスカーを観客に紛れさせ、「190cm、108kgの24歳(six-foot-three, 240-pound 24-year-old)」と紹介、サプライズゲストとして演奏させた。ベーシストは後にトリオを組むレイ・ブラウン(Ray Brown)。彼らの演奏は大変高く評価され、雑誌では「コンサート会場にいる全員を驚かせた」と称された。
オスカーにとって、このライブは大きな分岐点となり、世界で活躍する為の第一歩となった。

世界のオスカー・ピーターソンへ

オスカーはノーマンのガイダンスに従い、1950年から1952年の間、ツアーやレコーディングを中心に活動。瞬く間にアメリカ人の心をとらえた。
アメリカで初めて行ったレコーディングは1950年、ノーマンの興したレーベル"ヴァーヴ(Verve)"からリリースしたもので、ベーシストはカーネギーホールで共に演奏したレイ・ブラウンだった。1951年からは彼らにドラムのチャーリー・スミス(Charlie Smith)を加えたオスカー・ピーターソン・トリオを結成。チャーリーはすぐに元ナット・キング・コールのギタリスト、アーヴィング・アシュビー(Irving Ashby)と入れ替わることになり、その後、バーニー・ケッセル(Barney Kessel)、1953年からハーブ・エリス(Herb Ellis)とトリオを組むことになった。
ピーターソン・ブラウン・エリスのトリオは「最高のピアノ・ベース・ギター・トリオ」として、現在でも高く評価されており、オスカー自身も「彼らとの演奏は最も刺激的だった」と発言している。このトリオでの音源は"At the Stratford Shakespearean Festival (1956)""On the Town (1958)"に収録されており、現在でも広く愛されている。また、ジャズ・ボーカリストのエラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald)を加えた4人編成でのライブもよく行っていた。
1950年代は彼に大きな影響を与えたアート・テイタムとも共演、日本でもライブを行うなどピーターソンにとって大きく飛躍した期間でもある。

現在でも最高のピアノ、ベース、ギタートリオに挙げられることが多いオスカー、レイ・ブラウン、ハーブ・エリス。

1958年、ギターのハーブ・エリスがバンドを去り、ドラムのエド・シグペン(Ed Thigpen)が加入した。ギタリストではなく、ドラマーを加入させたのは「エリスを超えるギタリストを探すのは不可能と思った」からだった。それほどエリスのギターにほれ込んでいたのだろう。
この数年後にリリースした"Night Train (1962)"はオスカーのアルバムの中でも高い評価を得ており、商業的にも成功した作品である。
また、その2年後にリリースした"Canadiana Suite (1964)"をオスカーの最高傑作に挙げる人も多く、この期間は脂がのっていた時期と言えるだろう。
1965年からベーシストにサム・ジョーンズ(Sam Jones)、ドラマーにルイス・ヘイズ(Louis Hayes)を迎え、新たなトリオで活動を開始。2枚ほどアルバムをリリースし、1967年からルイスに変わり、ドラムのボビー・ダーハム(Bobby Durham)が加入した。同じ年に西ドイツにある"SABA"(後のMPSレコード)へ移籍。このレーベルには約4年程、在籍することとなった。

1965年、テレビ放送されたライブ映像。
メンバーはオスカー・ピーターソン、レイ・ブラウン、 エド・シグペン。

オスカー・ピーターソン、ジャズ界のレジェンドへ

1972年に入るとパブロレコード(Pablo Label)へ移籍。レイ・ブラウン、ハーブ・エリスとのトリオを思い出させるピアノ、ベース、ギタートリオを結成した。メンバーはギター、ジョー・パス(Joe Pass)、ベース、ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセン(Niels-Henning Ørsted Pedersen)。
このトリオも前回のトリオに負けず劣らずの人気を誇り、多くのジャズファンを熱狂させた。
1974年にはドラマーのマーティン・ドルー(Martin Drew)が加入し、カルテット編成となる。
1970年代にリリースしているアルバム"The Trio (1973)""The Giants (1974)""Oscar Peterson and the Trumpet Kings – Jousts (1974)""Montreux ’77 (1977)"の4枚はグラミー賞を受賞している作品であり、オスカーが名実共に、ジャズ界のレジェンドとなった時期と言える。
70年代の共演メンバーもエラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、カウント・ベイシー(Count Basie)、ロイ・エルドリッジ(Roy Eldridge)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)、ステファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli)と大御所だらけだ。

オスカーは10代の頃に発症した関節炎にも関わず、精力的にツアーやレコーディングを行った。
1980年代はハービー・ハンコック(Herbie Hancock)とレコーディングを行っており、モントレールで行われたフェスでは共演も果たしている。
カルテットでレコーディングしたアルバム"If You Could See Me Now (1983)"は1987年のベスト・ジャズアルバム部門でジュノー賞を獲得した。しかし、この頃から関節炎が悪化した為、以前よりライブの本数を減らすこととなった。

1990年に入るとレイ・ブラウン、ハーブ・エリスとのトリオを復活させる。彼らのニューヨーク・ブルー・ノートでの演奏を音源化した作品"Live at the Blue Note (1990)""Saturday Night at the Blue Note (1990)"は合計3つのグラミー賞を受賞。"Last Call at the Blue Note (1990)"もジュノー賞にノミネートされるなど、以前と変わらぬトリオでの活躍を見せてくれた。

オスカーピーターソンとカウント・ベイシーの共演。
ベースはニールス・ペデルセン、ドラムがマーティン・ドルー。

演奏中に脳梗塞を発症、身体の左半身が麻痺

しかし、1993年にオスカーに悲劇が起こる。
ブルーノートでの演奏中に脳梗塞を発症、一命をとりとめたものの、身体の左半身が麻痺してしまう。予定していたライブを全てキャンセルし、リハビリに専念することとなる。一時は歩くことすら困難であったが徐々に回復し、演奏を少しずつ再開していった。
左手は以前のように動かないものの、オスカーはライブやレコーディングを続け、多くの人を驚かせた。ブロードキャスターのロス・ポーター(Ross Porter)は病後の彼の演奏を見た後、「オスカーの右手での演奏は、他のピアニストの両手の先を超えている」と発言したほどである。

1996年にはアルバム"Oscar Peterson Meets Roy Hargrove and Ralph Moore (1996)"をリリースし1997年のジュノー賞にノミネートされる。その後もトロントやヨーロッパでのジャズ・フェスティバルにも参加、シアトル、ラスベガス、サンフランシスコでツアーを行うなど精力的に活動。
2001年までに"オスカー・ピーターソン"名義でのアルバムは150枚を超えることとなった。

オスカー・ピーターソン、60年以上のキャリアに幕を閉じる

2005年8月15日には80歳の誕生日を迎え、トロントのHMVにおいて祝賀会が開催された。
2007年、トロントでのジャズフェスティバルやカーネギーホールでのライブを控えていたものの、体調が悪化した為にキャンセル。同じ年の12月23日、82歳でこの世を去ることとなった。

作曲家としてのオスカー・ピーターソン

オスカー・ピーターソンは作曲家としても優れており、彼の書いた曲はカナダやアメリカの国民に愛されている。"Night Train"に収録されている"Hymn to Freedom"は1960年代の米国市民権運動の祝歌として愛された。1980年代にはオリバー・ジョーンズ(Oliver Jones)、ダグ・ライリー(Doug Riley)もこの曲をカバー、アルバムに収録している。

オスカーが作曲した中で最も有名な作品は"Canadiana Suite (1964)"だろう。インタビューにて「カナダの好きな部分を考えながら作った」と答えており、実際に"Wheatland(the Prairies)""Hogtown Blues(Toronto)""Land of the Misty Giants(the Rocky Mountains)"などカナダの地名が曲名で使われている。オスカーのアルバムはジャズ・スタンダードが収録されていることが多いがこの作品は全曲オリジナル。カナダへの愛が詰まった1枚と言える。

1977年に発表した"City Lights (1977)"はバレエダンス・チーム"Ballets Jazz de Montreal"の為に書いたワルツ調のナンバー。他にも"The African Suite (1979)"、チャールズ皇太子と公妃ダイアナの為に書いたアルバム"A Royal Wedding Suite (1981)""Easter Suite (1984)"など多くのオリジナルナンバーを生み出している。

前述したとおり、キャリアの長いオスカー・ピーターソンは共演したミュージシャンも多く、カウント・ベイシー、レイ・ブラウン、レイ・チャールズ、エラ・フィッツジェラルド、ロイ・エルドリッジ、マリアン・マクパートランド、ディジー・ガレスピー、ミルト・ジャクソンなどとレコーディングを共にしている。

映画音楽を手掛けた事もあり、"Play It Again, Sam"の為に書いた“Blues for Allan Felix,”や"Big North and Fields of Endless Day"の音楽、"The Silent Partner (1977)"のスコアも手掛けている。特に"The Silent Partner (1977)"のスコアは1978年のカナディアン・フィルム・アワード賞を受賞、高い評価を得た作品でもある。

オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)- ミュージックスタイル

オスカーが14歳の時、ピアノを教えていたポール・デ・マーキーは超絶的な技巧を持つ「ピアノの魔術師」フランツ・リストに影響を受けた人物だった。オスカーの卓越した技術やクラシカルな一面は、フランツに影響を受けたといってもよいだろう。ジャズ界でオスカーがリスペクトしていたのは、アート・テイタム、テディ・ウィルソン、ハンク・ジョーンズ、ナット・キング・コール。1940年代のオスカーのビ・バップスタイルは彼らの影響によるものが大きい。
音楽評論家のジーン・リーズ(Gene Lees)、アルゼンチン出身の作曲家ラロ・シフリン(Lalo Schifrin)はオスカーについて以下のように語っている。
「オスカーのピアノは19世紀のロマンチックなテイストと、20世紀のアメリカンジャズの要素、両方を備えている。彼はトップクラスの"ヴィルトゥオーソ"(超一流の演奏家という意味)だ。」
「オスカーは驚くべきスピードでピアノを弾く。彼に匹敵するのはフィニアス・ニューボーン(Phineas Newborn)かアート・テイタムぐらいだ。だがアートですら、オスカーのスウィング力には敵わない。フレージングもビバップスタイルのものやそれ以外からも借用し、幅が広い。ソロに物語を持たせる力もあり、バランスが取れている。」

オスカーの貴重なピアノレッスンが聞ける映像。

オスカー・ピーターソンから影響を受けたミュージシャン

彼から影響を受けたと思われるプレイヤーを探すのは難しい。主な理由はふたつ。
まず第一に、オスカーレベルの技術を持つピアニストは、プロでも少ないということ。フレージングを真似したいと思っても、演奏することが出来なければ彼のスタイルに近づくことができない。
次に、オスカーのプレイは幅が広く、特定のスタイルに分類することが出来ないことだ。
ハービー・ハンコック(Herbie Hancock)はオスカーについて、以下のように語っている。
「オスカー・ピーターソンは古典的なスウィングをモダンなものに変え、20世紀後半のジャズピアニストに大きく影響を与えていると思う。私もジャズピアノにおいて、オスカーに影響を受けた一人だ。彼はテクニック、グルーブ、柔らかさのバランスを完璧に熟知している。」
また、同じくカナダ出身のダイアナ・クラール (Diana Krall)は「私がジャズピアニストを目指したきっかけは、オスカー・ピーターソンのようなジャズピアニストになりたかったから。」とインタビューで答えている。

オスカーとハービー・ハンコックによる"Billie's Bounce" 。

オスカー・ピーターソンの私生活

オスカーは生涯で4回結婚をしている。1回目の結婚は1944年から1958年まで共にしたリリアン・フレイザー(Lillian Fraser)で彼女と間に息子が2人、娘が3人がいる。2回目は1966年から1976年まで共にしたサンドラ・キング(Sandra King)。そして3人目の相手がシャーロット・ヒューバー(Charlotte Huber)で彼女との間には娘が一人。最後の相手はケリー・ピーターソン(Kelly Peterson)で彼女との娘が一人。ケリーとは1990年からオスカーが亡くなる2007年まで共にしている。

約1時間にわたるオスカー・ピーターソンのドキュメンタリー。

ダイナミックでエキサイティングなピアニスト、オスカー・ピーターソン

長い間ジャズ界に刺激を与え、ジャズ音楽の発展に大きく貢献したオスカー・ピーターソン。
彼のダイナミックでエキサイティングな演奏は、今後も多くの人も魅了し続けるだろう。
幼いころに病気を患いながらも82歳まで生きたこと、脳梗塞で片手がほぼ使えなくなりながらもピアノを弾き続けたことなど、その力強い生き方は多くの人を勇気づけたことだろう。かく言う私も、その一人なのだから。

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