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歴史に名を刻んだソウル/R&Bシンガー、エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)の太く短い生涯

エイミーワインハウス

2000年に入り、個性的なミュージシャンが減ってきた中で、強烈な「個」を持つシンガーが現れた。それがエイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)だ。生前にリリースしたアルバムは僅か2枚だが、CDの売り上げ総枚数は2,000万枚を優に超え、グラミー賞も6回受賞。
レディー・ガガ(Lady Gaga)、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)のボーカルであるミック・ジャガー(Mick Jagger)なども彼女のファンを公言しており、現在でも多くの同業者からも非常に高く評価を受けている。
個性的なミュージシャンやアーティストが減少している現代において、エイミーのキャラクターは強烈に輝いていた。アルコール中毒や薬物依存により、非難を浴びることも少なくなかったが、それ以上に多くの人間から愛されていた人物だった。
そんな世界を賑わせたエイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)は、どのような生涯を送ってきたのだろうか。

1983年9月14日、イギリスのノースロンドンで生誕

エイミーワインハウス 幼少期 若い時

エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)は1983年9月14日、イギリス・ノースロンドンにあるチェイス・ファーム病院で生を受けた。父のミッチェル・ワインハウス(Mitchell Winehouse)は窓枠の施工業者(その後はタクシーの運転手)、母のジャニス・ワインハウス(Janis Winehouse)は薬剤師として働いていた。ワインハウス家の祖先はロシア系ユダヤ人、ポーランド系ユダヤ人であり、ロンドンには移民としてやってきた為、両親もユダヤ系だった。
エイミーの4歳上の兄アレックス(Alex)を含む4人は、ロンドンサウスゲートに住んでおり、エイミーはそこにあったオシッジ・プライマリースクール(Osidge Primary School)、アッシュモール・セカンダリースクール(Ashmole Secondary School)へ通っていた。
日曜日にはユダヤ系の学校に通っていたが、エイミー自身は高い信仰心は持っていたわけではなく、徐々にこの学校に行くことを拒絶。それ以降は年に一度だけ、シナゴーグ(ユダヤ教会)へ参加するに至った。
ワインハウス家の母親の家系は多くのジャズミュージシャンを輩出していた。エイミーの叔母、シンシア(Cynthia)はシンガーとして活躍しており、ジャズサックス奏者のロニー・スコット(Ronnie Scott)と付き合っていたこともある。
※ロニー・スコットは後に自身の名を冠したジャズクラブ「ロニー・スコッツ・クラブ」を設立。現在、このジャズクラブはロンドンで最も知名度の高いジャズクラブである。

エイミーはシンシア、両親の影響により、ジャズという音楽に興味を持つようになった。
彼の父、ミッチェルはよくエイミーにフランク・シナトラ(Frank Sinatra)の曲を歌い聞かせていた。そしていつからか、彼女も知らず知らずのうち、シナトラの"Fly Me To The Moon"を口ずさむようになっていた。
しかし、エイミーが9歳の時、両親が離婚。エイミーは平日と母親と、週末は父親の住むイングランド東部のエセックス(Essex)で過ごすことになる。

1992年、エイミーは叔母シンシアの勧めにより、毎週土曜日に"Susi Earnshaw Theater School"と呼ばれる私立学校に通うことになり、ここでボーカルレッスンとタップダンスのレッスンを受け始める。エイミーはこの学校で彼女の親友であるジュリエット・アッシュビー(Juliette Ashby)と"Sweet 'n' Sour"と名付けたラップ・グループを結成するが、すぐに解散することとなった。この学校には4年間在校することになり、その後、本格的に音楽を学ぶ為、フルタイムの舞台芸術専門学校"Sylvia Young Theatre School"に通い始める。
しかし、エイミーが14歳になる頃、「授業態度が悪い」という理由から学校を退学になった。しかし、この学校の校長である"Sylvia Young"はこれを以下のように否定している。
「彼女がこの学校を退学になったと聞きました。確かに、エイミーは15歳の時に転向しましたが、私は彼女を退学にはしていません。」

エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)、プロとしてのキャリアをスタート

エイミーワインハウス 学生時代

以前から兄のアレックス(Alex)のギターを触って遊んではいたが、14歳の頃からは自分のギターを手に入れ、その一年後から曲を書き始める。また生活費を稼ぐ為、"The Bolsha Band"のボーカルとしての活動を開始。一度のみだが、"World Entertainment News Network"のジャーナリストとして働いたこともある。
17歳になる年の2000年7月からは、ビッグバンド"National Youth Jazz Orchestra"の女性ボーカリストとしても活動するようになった。このビッグバンドでは、エイミーが自宅で聞いていたサラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)やダイナ・ワシントン(Dinah Washington)の影響された歌い方をしていたようだ。

ある日、親友であるソウル・シンガーのタイラー・ジェームス(Tyler James)が、プロモーション会社で働いていたニック・シマンスキー(Nick Shymansky)にエイミーを紹介、ニックは彼女の歌声を気に入り、マネージャーとなった。ニックは19歳、エイミーが16歳の頃だった。
最初のうちは、名前がクレジットされないレコーディングへの参加や、"Cobden Club"でジャズスタンダードを歌う日々を過ごしていたようだ。

2003年2月、エイミーはアイランド・レコード(Island Records)のCEOであるニック・ギャットフィールド(Nick Gatfield)の前で歌声を披露する機会を得る。彼女の歌声に感動したニックはすぐさまエイミーと契約することとなった。

2003年10月、記念すべき1stアルバム『フランク』(Frank)をリリース。楽曲はエイミー自身による作詞作曲、プロデューサーにはアメリカのプロデューサー兼キーボード奏者のサラーム・レミ・ギブス(Salaam Remi Gibbs)を迎え、アルバムが完成。サラームの持つ"レゲエ"という要素が、エイミーの"ジャズ""R&B"の要素とマッチした『フランク』(Frank)は、新人歌手とは思えない、「個性的なアルバム」として評価された。エイミーはこの作品で当時20歳とは思えない実力を世界に示し、彼女の歌声はビリー・ホリデイ(Billie Holiday) 、サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)、メイシー・グレイ(Macy Gray)などと比較されるほどだった。
商業的にも成功し、アルバムチャートで上位にランクイン。2004年の"British Female Solo Artist""British Urban Act" にノミネートされている。また、このアルバムの収録曲"Stronger Than Me"により、エイミーとサムールは「アイヴァー・ノヴェロ賞」を受賞した。ちなみこの曲は以前付き合っていたクリス・テイラー(Chris Taylor)のことを歌っている。
成功を収めたエイミーはこの後、"Glastonbury Festival""V Festival""Montreal International Jazz Festival"など、世界各国のフェスティバルに参加しパフォーマンスを披露した。
しかし、エイミー個人的には『フランク』(Frank)の出来には満足していないようで、とあるインタビューでは「20%の出来」と語っていた。その理由として、レコード会社の思惑が楽曲とミックスに反映されていたことが原因のようだ。
「私のCDで偽物(シンセサイザー)は使わない。"Take the Box"ではシンセが入っているけど、あれはあの曲のミキサーがやったこと、本当に腹立たしい」とラジオ番組で発言している。

2005年1月、エイミーは2ndのアルバム制作を行う予定だったが、周りの環境の変化からか曲作りに集中できずにいた。そしてこの頃、ブレイク・フィールダー・シビル(Blake Fielder-Civil)とパブで出会い、ほとんどの時間を彼と過ごす。彼との出会いはエイミーの人生に大きな影響を与えることになる。

"Back to Black"の成功、世界のエイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)へ

1stアルバム『フランク』(Frank)はジャズの要素が強めだったのに対し、エイミーは次のアルバムを「1950~1960年代のガール・グループ」を意識したものにすると決めていた。
2006年6月にようやく"You Know I'm No Good""Rehab"などのデモが完成し、順調にアルバム制作が進み始める。プロデューサーには前回と同じく、サラーム・レミ、そしてマーク・ロンソンを迎え、最終的には合計11トラックを5ヶ月で完成させた。

そして2006年10月前半にエイミー・ワインハウスのオフィシャルウェブサイトで最終告知を行い、10月30日、2ndアルバム『バック・トゥ・ブラック』(Back to Black)がリリースされた。
前作よりキャッチーで完成度の高い『バック・トゥ・ブラック』(Back to Black)は、UKの音楽チャートで何週にも渡り1位を獲得。
アメリカのニュース雑誌”Time magazine”はアルバムの収録曲”Rehab”を2007年のベスト・ソングに選び、ライターのジョッシュ・タイランジール(Josh Tyrangiel)は「エイミーのオリジナリティー溢れる歌声に誘惑されずにはいられない。マーク・ロンソンとのコンビで生まれた”Rehab”は、ソウルミュージック40年の歴史を余すことなく表現している」と絶賛している。アルバム収録曲の"You Know I'm No Good,"はゴーストフェイス・キラー(Ghostface Killah)とのリミックスバージョンが含まれたシングルを2007年1月にリリース。こちらもシングルチャート18位にランクインした。

アルバムのタイトルにもなっている5曲目”Back to Black”もシングルカットされ、2007年にリリースされたが、こちらはイギリス国内より、主にヨーロッパでの人気が高かったようだ。
"Tears Dry on Their Own""Love Is a Losing Game"もシングルカットされたが、それまでにアルバムの売り上げが伸びていた為、上のシングルほど成功はしなかった。

2007年6月10日、エイミーはイングランドで行われた”Isle of Wight Festival”にてローリングストーンズ(the Rolling Stones)と共演し、ミック・ジャガーと共に"Ain't Too Proud to Beg"を歌っている。
2007年11月5日にはアルバム”Back to Black”のデラックスエディションをリリース。この作品には"Valerie"、”To Know Him Is To Love Him”のライブバージョンや”Love Is A Losing Game”のオリジナルデモが含まれている。また、”Back to Black”の成功に伴い、1stアルバムの”Frank”もアメリカ国内でリリースされ、高い評価を得ることとなった。
最終的に『バック・トゥ・ブラック』(Back to Black)はこの年だけで185万枚を売り上げ、「2007年で最も売れたアルバム」となった。また、このアルバムからシングルカットされた曲のほとんどがシングルチャート1位を獲得している。

エイミーは自身のアルバムの他にも、いくつかミュージシャンの作品に登場している。
エイミーはマーク・ロンソンのソロアルバムに収録されている"Valerie"にボーカリストとして参加。この曲は2008年の「ベスト・ブリティッシュソング」にノミネートされた。
ムティア・ブエナ(Mutya Buena)の1stアルバム”Real Girl”に収録されている"B Boy Baby,"にもボーカルとして参加している。

“Back to Black”がリリースされ、エイミーはユニオンチャペル(Union Chapel)で行われた”Little Noise Sessions”、イギリスのテレビ番組”Jools' Annual Hootenanny”で”Jools Holland's Big Band Rhythm & Blues”と共にマーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye)の”I Heard It Through the Grapevine”を披露するなど、精力的に活動した。

ブレイク・シビル(Blake Fielder-Civil)との出会い、アルコール・薬物依存

先に書いたように、2007年はエイミーが飛躍的に成功した年だった。
しかし、全てが上手くいった訳ではなかった。

エイミーにはアルコール・薬物依存の傾向が見られ、2005年ほどからメディアの注目を集めていた。2005年の終わりにはやせ細った姿が確認されている。これは、当時付き合っていたブレイクから別れを切り出されたことが原因によるアルコール中毒が原因と思われる。
2005年12月からはマイアミに戻り、ブレイクへの気持ちや自分の心境の変化を楽曲で表現。ブレイクへの情熱を音楽に向けたエイミーは体調も順調に回復した。
しかし、2016年5月5日に父方の祖母シンシアが死去。彼女の死により、エイミーは大きなショックを受ける。

"Back to Black"が成功し、ブレイク・フィールダー(Blake Fielder)と寄りを戻し、2007年5月18日に彼と結婚。これを機に、薬物を頻繁に使用していたブレイクの影響からエイミーもアルコールと薬物に依存していくことになる。
8月にはドラッグの過剰摂取で原因により、予定していたイギリス・ヨーロッパツアーを中止。過量のヘロイン、エクスタシー、コカイン、ケタミンとアルコール中毒の為、この期間は入院することとなった。エイミーはこのとき、自身に自傷行為、うつ状態、拒食症の症状があったことを認めている。
10月にはノルウェーにて、7gの大麻を所持していたとしてシビルと共に逮捕されたが、罰金350ポンドを払い、釈放された。

11月に夫のブレイクが暴行容疑により逮捕。更にエイミーの精神状態が悪化することになる。
同じ月に行われたイギリス・バーミンガムでの17日間にわたるツアーの初日、1万3000人の観客を待たせ、足取りがおぼつかない状態で登場。ライブ中、何度もよろめき低調なパフォーマンスを示したワインハウスに対し、ファンはブーイングを浴びせた。(こちらの記事により詳しい内容が記載)
残りのコンサートも本調子とはいかず、ファンの話によると、酔っ払った状態でライブを行っていたようだ。この時から既に飲酒・薬物中毒となっていたエイミーは、医者の判断により、2007年11月27日以降、残りのライブをキャンセルすることになった。

”Best Pop Vocal Album”を含む、5つのグラミー賞を獲得

2008年1月24日、エイミーは薬物のリハビリ施設に2週間ほど入所した。
2月10日、エイミーは”Record of the Year”、“Song of the Year”、“Best Female Pop Vocal Performance”、”Best Pop Vocal Album”、”Best New Artist”など5つのグラミー賞を獲得。また、アルバム”Back to Black”は2009年の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」にもノミネートされた。ビザの関係で式には参加できなかったが、ロンドンからサテライト中継で"You Know I'm No Good"、"Rehab"の2曲を熱唱した。

グラミー賞の後、アルバムの売り上げが増加。アメリカ国内のBillboardチャートで2位を獲得した。2008年にはロンドンのアールズ・コート (Earls Court)で行われた”2008 Brit Awards”にて、マーク・ロンソンと共に"Valerie"、自身の曲"Love Is a Losing Game"を披露した。
その後も順調にCDは売れ続け、この時点で約250万枚を記録。イギリス国内で「21世紀のトップ10・ベストセールアルバム」にランクインすることになる。また、2008年4月14日にはエイミーのドキュメンタリー映像”The Girl Done Good”も発売された。

4月26日、38歳男性に暴行し、警察に拘束される。またその10日後、カメラにコカインを吸っていると思われる映像が映っており、ドラッグ所有の疑いで逮捕された。しかし、数時間後にコカインを吸引しているという確証が得られず、釈放されている。

翌月にはロンドンで行われたアイヴァー・ノヴェロ賞(Ivor Novello Awards)にて、"Love Is a Losing Game"が「ベスト・ソング賞」を受賞、"You Know I'm No Good."も同じ賞にノミネートされた。そして「ベスト・セーリング・ソング」として"Rehab"もノミネートされている。
最終的に、『バック・トゥ・ブラック』(Back to Black)は2008年において、「世界で7番目の売り上げを記録したアルバム」となった。

エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)のスキャンダラスな日々

2009年1月、エイミーは自身のレコード会社”Lioness Records”を設立する。ここでエイミーが初めてプロデュースしたのが、当時13歳のディオンヌ・ブロムフィールド(Dionne Bromfield)。ディオンヌは”Lioness Records”からソウルミュージックをカバーした自身初のアルバム”Introducing Dionne Bromfield”をリリース。エイミーはこのアルバムにバッキング・ボーカルとして参加している。
常にカメラに晒される生活に、エイミーは徐々に心を蝕まれていく。この頃に撮影された写真は見るに堪えないほどやつれており、メディアやTV番組でバッシングを受けていた。
2月からは心を休ませる為、セントルシアでバカンス。この期間は薬物を使用していなかったが、代わりにアルコールの量が増えていたようだ。1か月の予定だったが、結局6か月ほど滞在することになる。滞在中に”Saint Lucia Jazz & Arts Festival”にてパフォーマンスを行ったが、足元がおぼつかない、歌詞も忘れる、ショーを途中で切り上げてしまうなど、良い状態ではなかったようだ。
6月に父親のミッチ・ワインハウス(Mitch Winehouse)が記者やカメラマンを連れて島を訪れる。この頃から父親の金銭欲や名誉欲に嫌気がさしていたようだ。
7月には遂に夫ブレイクと離婚。エイミーはブレイクを愛していた為、離婚に反対だったが、離婚申請が受理され、約2年の結婚生活にピリオドを打たれた。

7月13日、エイミーが歌うサム・クック(Sam Cooke)の"Cupid"が収録されている"Rhythms del Mundo:Classic"がリリース。
翌月行われた”V festival”に登場し、"You're Wondering Now"、"Ghost Town"を熱唱。
この年、アイランド・レコード(Island Records)は「2010年には、エイミーの新しいアルバムを発表できるだろう」と公言していた。
2009年9月19日、エイミーはミルトンケインズシアター(Milton Keynes Theatre)のマネージャーを襲ったとして暴力事件を起こし、三度目の逮捕。 エイミーは容疑を認め、条件付きで釈放となった。
10月には豊胸手術を受けたが、合併症が原因と思われる痛みで11月に治療を受けている。

2010年は比較的活動を抑えていたような印象を受ける。
7月には「2011年1月までには新しいアルバムを発表できると思う」と発言していたが、レコーディングが始まることはなかった。
エイミーは9月9日にリリースされたマーク・ロンソンとクインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)のトリビュートアルバム”Q Soul Bossa Nostra”に参加。レスリー・ゴーア(Lesley Gore)の"It's My Party"を収録する。またこの頃、アメリカの有名なドラマーであるクエストラブ(Questlove)とバンドを結成する予定だったが、ビザの問題で順調にはいかなかったようだ。
10月に行われたインタビューでは「ドラッグは辞めた」と公言。しかし、この影響でアルコールの量が増えたのでは、との見方もある。

2011年1月に入り、ブラジルにて5つの公演を行ったが、コンディションが悪く、途中でライブを切り上げることもあった。
6月にはヨーロッパで12公演を行うツアーが組まれた。しかし、その初日である6月18日のセルビアの首都ベオグラード公演で、エイミーは約1時間の遅刻。やっとステージに登場したかと思うと、泥酔状態でまともに歌うことが出来ず、2万人集まったオーディエンスから大きなブーイングを受けてしまった。
これを受け、20日のイスタンブールと22日のアテネ公演は中止。その後の公演も21日に正式に中止が発表された。

突然の別れ - エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)

2011年6月23日、エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)はこの世を去ってしまう。
死亡理由は過剰なアルコール摂取。寝室には2本の空のウォッカの瓶があったそうだ。
エイミーはこの日も3日前、ロンドンにあるラウンドハウスで彼女がプロデュースしていたディオンヌ・ブロムフィールド(Dionne Bromfield)のライブに参加しており、元気な姿を見せていた。

エイミーが最後に行ったレコーディングは、トニー・ベネット(Tony Bennett)とのデュエットした”Body and Soul”。この曲はトニーのアルバム”DuetsⅡ”に収録されており、2011年9月14日にはシングルとしてもリリースされた。また、この曲は2012年、グラミー賞の「ベストポップ・デュオグループ・パフォーマンス賞」を受賞している。

エイミーの死後、彼女の父ミッチ・ワインハウスは彼女のように薬物やアルコール中毒に悩む若い人達をサポートする為の財団”Amy Winehouse Foundation”を立ち上げた。
2011年12月6日にはエイミーの未発表曲を集めた『ライオネス:ヒドゥン・トレジャーズ』(Lioness: Hidden Treasures)がリリース。1stアルバム『フランク』(Frank)、2ndアルバム『バック・トゥ・ブラック』(Back to Black)も売り上げを伸ばし、CD売り上げの総枚数は1,600万枚を超えている。

エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)- ミュージックスタイル

彼女の音楽スタイルは"ソウル""R&B""ジャズ"などとジャンル分けされることが多い。
幼い頃は、両親と祖母の影響によりフランク・シナトラ(Frank Sinatra)、サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)などジャズシンガーをよく聞いていた。当時流行っていた音楽に興味はなかったようで「本物ではなく、薄っぺらでくだらない」と酷評している。
10代に入るとジャズ音楽に加え、ダイナ・ワシントン(Dinah Washington)、キャロル・キング(Carole King,)などのR&Bやソウルミュージックも愛するようになる。そして、エイミーの音楽を語る際に外せないのが1950~1960年代のガール・グループからの影響だろう。特に、ニューヨーク出身の1960年代の女性歌手グループであるザ・ロネッツ(The Ronettes)は彼女のお気に入りだった。ソウル/R&Bの名盤となった"Back to Black"だが、ザ・ロネッツの持つ「ポップ」な要素を取り入れたことで、多くの人に愛される作品となったのではないだろうか。
先にも述べたように、同業者のファンも多く、U2, M.I.A., レディー・ガガ(Lady Gaga)、ブルーノ・マーズ(Bruno Mars)、ニッキー・ミナージュ(Nicki Minaj)、アデル(Adele)、ケリー・クラークソン(Kelly Clarkson)、コートニー・ラブ(Courtney Love)、グリーン・デイ(Green Day)などがエイミーに賛辞をささげている。
共演したトニー・ベネット(Tony Bennett)も「エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald)やビリー・ホリデイ(Billie Holiday)と肩を並べる偉大なジャズシンガー」と褒めたたえている。
また、ボブ・ディラン(Bob Dylan)はアルバム”Back to Black”がお気に入りで、エイミーを「最近のアーティストでは見かけない、本物の個人を体現していたシンガー」と称していた。

「ファッション」から見るエイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)

ファッションにおいても、エイミーは1960年代のガール・グループから影響が大きい。彼女のヘアドレッサーだったアレックス・フォーデン(Alex Foden)はエイミーからリクエストで髪型を60年代に流行していたビーハイブ(beehive)、メイクはザ・ロネッツ(The Ronettes)を意識したクレオパトラのメイクアップを施していた。
また、彼女は太い赤のリップスティックと厚いアイブロウ、重いアイラインが好みだったが、これはマイアミでの旅行中に見たラテン系の女性からインスパイアされたとのことだ。
また、エイミーはイギリスのファッションブランド「FRED PERRY(フレッドペリー)」ともコラボしており、こちらからその作品を確認することができる。

The_Ronettes-photo
1960年代の女性歌手グループ、ザ・ロネッツ(The Ronettes)。2004年にはヴォーカルグループの栄誉の殿堂(Vocal Group Hall of Fame)入りを果たしている。

エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)の人物像

暴力事件やコンサートでの失態など、悪い面が多くクローズアップされがちな人物だったが、個人的にはエイミーが悪い人物だったようには思えない。地元カムデンのファンは彼女の自宅に訪れ、サインを貰いにいき、エイミーもそれに応じる様子などが報じられたこともある。また、彼女がプロデュースしたディオンヌ・ブロムフィールド(Dionne Bromfield)のライブにも頻繁に顔を出し、応援した様子が写真に収められている。
加えて動物好きな人物でもあり、猫や猿を飼っていたようだ。
お酒が入ると暴力的な一面があったことは否めないが、それでも心の優しい人物だったと、私は推測する。

偉大なソウル/R&Bシンガー、エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)

間違いなく、他のシンガーと違う「個性」を発揮していたエイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)。自分に正直に生きるそのスタイルは、多くのミュージシャンからの尊敬を集めた。エイミーはロックスターではないが、ロックミュージシャンよりも「ロック」していた生き方だったと思う。インターネットの発達により、有名人にとってその発言や行動が厳しく監視されている今の時代。そんな中、彼女のように自分を曲げず、または曲げられずに生きることが出来る人がどれほどいるだろうか。
2012年には「最も偉大な女性シンガー100」で堂々の26位にランクイン、短い生涯で数々の記録を打ち立てた。
「記憶」にも「記録」にも残るシンガーとして歴史に名を刻んだのが、偉大なソウル/R&Bシンガー、エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)なのだ。

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